【責任】と言うと、とても重たいイメージを持つかもしれません。家族を養う責任、仕事で担う責任・・・、それは誰かへの義務であったり、果たさなければいけないことや、やらなければならない何か。そう思うと、肩にずしりと【責任】はのしかかります。得体のしれない重みは、自分に窮屈さや我慢、困難さを感じる人もいることでしょう。
自分の人生に【責任】を持つということは、こうした、いわゆる『義務』ではありません。ましてや、嫌でもやらなければいけないこと、自分を犠牲にしてまで、何かを果たすことでは決してありません。
ここでいう【責任】とは、私たち一人ひとりに日々与えられている様々な状況に目覚めて、応答する能力のことです。
『自分の人生に責任を持つ』ことが意味するもの
自分が変われば、周りが変わるとは?
自分の周りで起こっているどんなことも、その瞬間、瞬間ごとに、自分が繋がっているサークルの反映であるとみなします。
例えば、心を開き人に接することで、相手がこれまで以上に優しくなったりしたことはありませんか?もしもあなたが優しさであったり、共感や情熱という本質に繋がっているとしたら、無意識に、相手はそんなあなたのエネルギーを受け取ります。自分のエネルギーを与えると、良い悪いに関係なく、倍以上のものが自分に返ってくるのは、宇宙の法則です。
自分が外側にいるのか?内側にいるかで、与えるものが大きく異なるということ。できれば常に内側のサークルにいたいものですね。内に入れば入る程、二極化から一つであることへと私たちは移動します。自分の中心、そこに在るのはシンクロニシティです。
たとえ酷いことをされたりしたとき、自分の中心を思いだすことができたら、相手への共感が自然に起こります。外側では、酷い!と嘆き悲しむか、怒りを相手にぶつけるかもしれません。でも、中心にいると、相手の痛みに気づき、その行為は決して自分に向けられたものではなく、その人自身の問題なのだと理解することができるのです。
外側で反応することで、事態は余計に悪化することが多々あります。でも、内側のサークルにいることで、怒りや悲しみという選択以上の、もっと創造的な選択肢が増えるはずです。より内側深くでは、自分も相手も、そこに関わる全てのものにとって調和がもたらされるアイディアが起こるかもしれません。
自分が変われば、相手が変わる・・・という壮大な取り組みも大切かもしれませんが、自分の内側に入ることで瞬間的に見方、捉え方に新たな気づきを起こすことができます。簡単!
どのサークルにいようと関係なく起こる事態に関して
そうは言っても、一方で、内側深くに入っていようが、ずっと外側にばかりいようが、関係なく起こる自然災害やこの度のウィルスなどはどうなの?と、思うかもしれません。
これもまた、自分がどのサークルにいるかによって、起こっていることは同じでも、全く別ものになり得るのです。自分の中心からのものなのか?外側からなのかで、視えてくる世界は全く違う世界に住んでいるかの如く、受け取るものに大きな違いをもたらします。
先ほどの例で言うなら、外側のサークルにいる場合、人から何かされたり、言われたりすることに翻弄され、怒りを感じたり、悲しくなったり、あるいは喜びや嬉しさを感じたりします。これは、自分以外の人によって、自分の幸、不幸を決めてしまうということを意味しています。
でも、私たちが中心にいるなら、どんな場面に出くわしても、相手への理解があります。自分が傷つくのか、相手を傷つけるのか、あるいは理解を示し何らかの新しい選択を見出すかなど、自分で自分がどうするかを決めることができます。これは、誰かのせいにもせず、状況のせいにもせず、ただ起こっていることに明晰な応答をしているということです。これが、人生に責任を持つということ。
外側からは、事態が悪化しているように見えても、例えば自分の才能という内側のサークルにいれば、その状況下でも才能を活かし、シェアすることで人に喜びを与えられることも考えられます。愛や慈愛という本質のサークルにいれば、自分の言動に周りの人は癒され、パニックが静まることもあり得ます。
どんな困難の時にでさえ、内側にいればいるほど、自分自身にも周りにいる人にも、安心や安らぎをもたらすことが可能なのです。私たちの人生には、こうしてどうしようもないことが頻繁に起こります。でも、それを一つの機会、チャンスと捉えることができるのは、あなたが内側にいるからなのです。
あなたの優しさ、勇気が、この状況をどうにかしたい!みんなを元気にしたい!!と願うあなたに、みんながハッピーで元気になる方法を提案してくれることがあります。自然に内側を感じ、自分自身の強みや才能、本質に繋がっているのです。素晴らしい!
自分の人生に責任を持つ!
人生が主体的になってくると、誰かのせいや、状況のせいなどにしなくなります。これはね、あなたはもう、被害者ではないということです。他の誰かや状況があなたの人生を創るのではなく、どんな環境おいても自分自身で人生を創造することを可能にします。
どうしようもないことに翻弄される、可哀想な被害者ではありません。自分の人生に責任をもつことは、創造者ということです。
こうした体験をして下さったから、こんなご感想を頂きましたのでシェアさせて頂きます。
今回は、感情的なリアクションを深く深く見ていくというセッションだった。以前にも同様のテーマで別のセッションを受けたことはあったし、自分でもセラピストとしてクライアントさんに対してリアクションを変容するということはしてきているが、例えていうなら、私が行っているのは小学2年生レベルで、今回のは大学3年レベルであった、ぐらいの差があった。まさに次元が違いすぎるのだ。
それだけ深いレベルで起こる変容なので、セッション直後は深い気付きによるあまりに大きな解放で、体を支えていることができないぐらいの脱力状態だった。それは10分程度でおさまり、その後はセッションの余韻である心地よい疲労感と、胸部の大きなスッキリ感と、生きている喜びとをしばらく楽しんでいた。
何ということだろう。人に対して、その人が誰か別の人のせいにしていることはわかるし、それに気付くように働きかけているというのに、自分もまた気付かないところで人のせいにしていたのだということに気付かされた。仕事柄、自分に起こることは自分の内面の投影であるということは理解しているつもりだったが、私はここまで気付いていなかったのか!ということは本当に驚愕だった。
打ち明け話はまだある。日頃「愛はご自分の中にあるのですよ」なんて偉そうに言っているが、私こそが、両手を広げて「愛が欲しい、愛が欲しい」と言っていたのだ!!!!嗚呼!!!
それに気付いたら、自分の中に大きな柱が立ったように感じた。というか、水道のホースぐらいの太さに感じていた垂直の軸が、両手で抱きしめられるぐらいの太さの柱に感じたのだ。
木の幹ほどの太さに感じたエネルギーのパイプの、いろんなところに障害物を置いて、受け取れないようにしていたのは自分だった、と気付いたのだ。気付いた次の瞬間、パイプの中が高圧で洗浄されたように感じた。するとその直後に、突然腑に落ちる感覚があった。「あぁ!!!これが自分の人生に責任を持つということか!!」と。
言葉ではこの感覚は説明のしようがない。「あぁ!!!」としか。無理矢理言葉にして経験を限定的にせず、感覚のまま味わっていよう。
セッションが終わって時間が経っても、まだ何かが開き続けている感覚がある。それに開きながら、起きることにも開いていようと思う。
この内容は、エンパワーメントの上級クラスです。今のところ、個人セッションでしか公開しておりません。あなたの気付きが、生き方を変え、未来を創造していくのです。さあ、魂のレッスンを、ハートから始めましょう。
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