子どもの七五三のお祝いの前日の話しです。うちの親に『明日何時に迎えに行くからね。』と電話をしただけのことでした。『はいはい。分かりました。お祝いしましょうね。楽しみ。』・・・母と、こんな会話に発展することは、私の場合、決してあり得ません。欲しくて欲しくて、やっと授かることができた、子どもの成長を喜び願うお祝いの前日に、私が聴いた言葉はまさかの『行かない』でした。
初孫のお祝いの席に、『行かない』理由が、私には全く理解できませんでした。急遽、母は急病ということにして、実家からは父だけが笑顔でお祝いに来てくれた七五三。この時の私は、母への怒りと憎しみの分だけ、主人と子どもに対して申し訳ない気持ちになるのでした。
母は、私がどうすると一番苦しいかを知っているかのよう。私にとって大切な人をないがしろにすることは、私への復讐か何かなのでしょうか。それほど憎まれる大罪を、私はしでかしたのでしょうか。母を語ると、私はいつも心が鉛のように重たくなるのを感じます。
私のアルバムの全ては、母の手によっていつの間にか焼却されいました。母を真直ぐ見つめていた幼い日の純粋な思いまで、捨てられた気がしました。私は、母の深い闇を感じて、心が凍りつきそうでした。
これまでの、人生の節目や日常でさえ、傷を負わずに済んだことはありません。いつも何かしら、母からの心無い言葉や態度に傷つき、そんな母が情けなかったし、大嫌いで、顔を合わせない努力をしてきました。
記憶の蓋が開いて気づく【愛】
ある日、私は第2チャクラを癒す瞑想をしていたときのことです。既に母のことなど、すっかり記憶の奥底に閉じ込めて、何も思ってもいませんでした。
ほどなくして、大きなオレンジ色が見えてきました。それは、私に夕日を連想させました。すると、オルゴールの音色が聞こえてくるのです。夕焼け小焼けのメロディーが、私の記憶の蓋を開けるかのように・・・
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘がなる
おててつないでみなかえろう
からすといっしょにかえりましょ
まだ、幼稚園か或いはそれよりもと幼かったかもしれません。虫歯が痛くて、歯医者に行った帰り、母が私に買ってくれたオルゴール。ピンクの小さな箱を開けると、優しく奏でる夕焼け小焼け。母と一緒にお出かけした嬉しさと(←歯医者だけどね)、その美しい音色が混ざって、何度も何度も繰り返しネジを巻いて、聴き続けていました。今となっては、遠い記憶。
実家を出て一人暮らしをする時にも、一緒に持っていったオルゴール。それから十数年経ち、東京から実家に戻る時には、オルゴールは持ち帰りませんでした。捨ててきたのです。母に対する痛みが、怒りになっていた私は、母を捨てるように、オルゴールを処分したのです。
瞑想の中で、そうした自分の痛みにも、当然のことながら気づくのですが、私は、母の寂しさ、悲しさと苦悩にも、同時に触れてしまったのです。
母は、私が大好きで、いつまででも手元に置いておきたかったのです。何故なら唯一、母を守る鉄壁のガードが、私でもあったからです。『私のために』『私が望むから』そう言えば何でもまかり通るほど、私は家族中に愛されていました。何十年経っても【嫁】でしかなかった母は、私を盾にすることで、自分の居場所を確保していたのです。かわいそうな母。。。
成長と共に、私を失う恐怖と絶望は、どれほどだったことでしょう。母の言いなりにはならなくなっていく私を、どれほど歯がゆく感じたことでしょう。私が離れていくにしたがって、1人で闘うしかなくなっていく人生に、どれほどの不安を募らせていたことでしょう。母の失望はそのまま、私への嫌悪と変わり果てます。母は、私を憎むことでしか、子離れする方法を知らなかったのかもしれません。これが、母なりの自分を守るやり方だったのです。
母は、確かに私を愛していました。私を、とても大事に思ってくれてました。たくさんの愛を、母から注がれていました。そうした時間の中で私も次第に、束縛に変わっていく母の愛から、少しでも遠くへと離れていきたくなるのです。そうすることで、私は、私を守ったのです。
愛のカタチ
人生では親子ですが、それぞれに人生のテーマがあるのですから、自分のことでいっぱい一杯になっても、何ら不思議はありません。起こった出来事の表面しか見えなければ、誤解を生みます。お互いの成長を、傷つけあうことでしか果たせなかった、私たち親子のように。愛が、憎しみへとだって、易々と変貌を遂げるのです。
この惑星において、愛と憎しみは、同じものです。憎しみは、根底に愛がなければ存在できません。愛の反対側は、憎しみではないのです。愛が在るからこそ、憎いのです。そこに愛がなければ、何も思うことはないはず。こんなに愛している!という届かない叫びが、憎しみと名を変えるのです。
私たち親子の葛藤に、本質を見出すことが出来れば、全ては【愛】だったと気づくことができます。例え歪んでいたとしても、【愛】で在ることに気づけたら、人は癒されます。母の、なんて不器用で、あまりにも滑稽で、痛々しい【愛】の表現。そんな表現しか出来なかった母の【痛み】に、今は寄り添いたいのです。
私は、長年嫌いでたまらなかった母を、本当には嫌いになれなかったことを悟りました。そこに気づけただけで、感謝が溢れました。自然に、母への慈しみが湧きました。もはや、赦すとか、そんな次元ではなくなっているのです。母を思う気持ちが温かくて、あまりにも甘美で、切なくて・・・。夕焼け小焼けを何度も繰り返し聴いた、子ども時代と同じ気持ちで、母を慕う自分に出会うことができました。
母が嫌いです。
そう言っていた私もまた、歪んだ愛の表現を、精一杯していたのです。憎しみと名を変えた愛で。私も母も、何てかわいらしい人間なんだろう。あのオルゴールを、捨ててしまったことが悔やまれます。ですがその音色もまた、ハートの中で、いつでも美しく再現できることを私は知っています。
母に対する感情的なエネルギーを、癒す必要があったのでしょう。私は長い間、そのことを認めたくありませんでしたし、避けていました。でも、ハートは知っていました。私の人生を創造する上で、このエネルギーを解放する必要があることを。清らかで、優しいエネルギーに包まれていく私の記憶。
【愛】を見ることは、脳にはできません。エネルギーを見るには、ハートなくしてはできないのです。【愛】に気づくには、ハートは必須です。変容は、ハートを通して起こります。誰の内にも、ハートは在るのです。痛みを変容する力は、誰もが持っているのです!
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こころに響きました。
愛があるがゆえに痛いことがありますね。
痛みのわかる孝子さんだからこそ、みなさんをリードできるのでしょうね。
シェアをありがとうございます。
Masayoさま
コメントをありがとうございます。
痛みに価値を置くと、弱さではなく強さだと気づけますね^^
全てを受け入れて初めて見えて来る世界があるのだと
人生に教えられている日々です。