分かってる・・・知っている・・・理解した・・・浄化した・・・手放した・・・委ねた・・・
どれだけ綺麗な言葉を並べても、「思考」のレベルだけで気づいているというのなら、それはとっても小さな変容でしかない。何も起こってないも同然のように、現実は、何も変わらない。そこには、並べ立てたキレイな言葉ほどのエネルギーは微塵もない。その言葉には、【真の自分】のエネルギーが入っていない。だから、その言葉に、エネルギーを感じられないのだ。
頭だけの理解。物事が起こり、ああなって、こうなって、こうなる。A+B=C。それを繰り返す。もう既に分かっていることなんだと。本当に分かっているだろうか?本当に???
自分を??
その状態は、心のどこかで、諦めていることと、何が違うのだろう。諦めるしかない、それが手放すこと、委ねること、そう思っている人も世の中にはいる。それを否定するつもりはない。ただ、凍ったエネルギーが、そのままそこに在り続けるだけのこと。それは、変容されるまで、そこに居続ける。何世紀にも渡って、氷は、そこにい続けられる。
分かっている・・・と、思っていても、「思考」なんて、ほんの点ほどの理解しかできていない。気付きには、段階があるように思う。最初は思考からでもいいのかもしれない。だけど、更に気づきを深めることで、なるほど!と思い、次にうなるような気づきがやってくることがある。更に更に気づきが深まると、全てが完璧なことに気づき、感謝が溢れることさえある。
これらを起こせるのは、「思考」にはできない。きっかけは「思考」であっても、それを起こすのは、自分の内側。そこに至るための、向き合う勇気は必要になる。内側からの気づきによって、エネルギーは流れ出す。これが変容です。
内側から気づく。思考での気づきとは比べようもない変容が起こる。それはまるで雪崩だ。高々とそびえ立っていた氷山さえ、あっけなく消え去る。視界は開け、凍っていたエネルギーは、そのままあなたのものだ。パワーをいかんなく使えるようになっていく。
嫌なことに向き合うのは、できれば感じたくないことだし、避けたい。気持ちは分かるの。だけど、それは予兆。気付きを得る準備ができていることを示している。信頼し、痛みの中にさえ入っていくことができる。それが委ねるということ。
それをして、大変なことになった人を見たことがない。誰もが清々しい顔をして、エネルギーに漲る。蓋をして、気づけたし、手放したし、委ねているからもういい。それを言っているのは、誰なのかに気づくこと。
あなたの内側の神聖なものだと自分を語り、あなたの声で、あなたの中のエゴイズムがささやく。もう、そこは充分に分かってる。理解している。手放したことなんだ。済んだことなんだと。だけど後になって気づく。例の事件がまた起こったとき、あのエネルギーは、まだ自分の中に在ったんだと。気づくタイミングを逃す度に、事は、大きくなっていく。
痛みを感じたら、気づきを広げ、変容させることで全てが流れていく。内なる神の声を、聴き分けられる耳を、あなたはもっている。
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