その日、私はとても体調が悪かったのですが、間の悪いことに、どうしても空けることのできない用事がありました。しつこい頭痛に、身も心も重たく感じていました。
『私の体調に気づかって、周りの方にご迷惑をかけてしまいかねない状況を作るのは嫌だ。』
『何より、この痛みから早く解放されたい。』
私は数年前まで、痛み止めを飲み、痛みを消してしまうことが、何よりも最善であるかのような日々を過ごしていました。お陰で、薬を飲めば体調は悪化することもなく、とても快適に過ごすことができました。そして・・・次に体調が悪くなったとき、また薬を飲み、すぐにこの頭痛から楽になれることにすっかり慣れてしまっていました。
薬は、飲むと楽になる。不快さは消えて、何事もなかったように人と接することができるし、快適そのもの。身体は、そんな私に不満をいうわけでもなく、淡々と自分の仕事をしてくれます。全てが万全のはず。
でも、この後ろめたさは一体なんだろう。。。
それは、身体への裏切りのように感じられたのです。寝れば治るところを、わざわざ麻痺させ、身体に無理をさせている自分。しだいに私は、自分の身体に申し訳ない気持ちになりました。とは言え『ラク』になることを知っているので、また痛みに直面した時には、痛み止めを飲んでしまいたくなるのでした・・・。
数年前までの私は、痛みを感じれば鎮痛剤を飲めばいいし、具合が悪くなれば病院に行くものだと、それが当たり前のことだと信じていました。
薬を勧めることの本質
ところで、私たちは誰かが具合が悪いと言えば、親切心から『薬飲む?』と、お薬を飲むことを勧めることがありますね。
飲んでほしいのです。目の前の人に早く元気になって、元に戻って欲しい。それは、一見優しさのような、思いやりのように感じられますが、実際にこの本質は何かを見つめたことはありますか?
この場の雰囲気を悪くしたくないから。つまり、自分のためにも、誰かの体調が悪くなって欲しくないのです。常に、自分も人も『良い状態』でいてほしいのです。
親しい人ならば、なおさらです。ぐったりしている愛する人を心配する自分に何を感じるでしょう。『不安』です。私たちは【不安】を感じたくないのです。それは、自分の心の痛みに直結するから、感じたくない。だから、一刻も早く、薬を飲んで。元に戻って。【自分のために】という本音に気づけていますか?
自分のために、早く元気になれということを『傲慢』と言います。しばらく寝ていれば治るようなことにも、一刻も争うような緊急性を感じ、薬を飲んで早く良くなって欲しい、自分のために元気になって欲しいという願いのこもった『薬飲む?』なのです。
意外と身近にある「依存」
依存とは、何でしょう?私たちは、無意識に何かに依存してはいませんか?
例えば、私は甘いものが大好きでした。これを止めるのに、とても苦労しました。どこかに『甘いもの』タイマーがあるんじゃないかと思えるほどでした。小腹が減った時には甘いもの、口さみしい時にも甘いもの、気分転換に甘いもの、ストレス解消に甘いもの、自分へのご褒美に甘いもの、落ち込んだ時にも甘いもの・・・・常に、甘いものが必要でした。
まさか、こんなことが依存だとは思ってもみませんでしたが、やめてみようと思った時、それは簡単ではなかったのです。これが中毒というものなのだろうか?と、思いました。
これまで蓄積してきた『甘いもの』が身体から抜けたとき、初めて、自分のおかしさに気づけたのです。久し振りにチョコを食べたとき、こんなに甘いものをよく毎日食べ続けていられたものだと、その異常さに唖然としました。が、渦中にいる時にはまったく気にしたこともありませんでした。中毒とは、こうしたことなのでしょう。
甘いものを取り入れることを止めてみると、私の人生から頭痛が消えたのです。思わぬ結果に【頭痛】という一見ネガティブな出来事に、どれだけの深い学びがあったかを思い知るのです。
依存は治せるのか?
私の場合、甘いものに依存していたといえるでしょう。
甘いものは、一時の幸せを感じさせてくれたのです。甘いものを食べたときの『美味しさ』は、幸福であり、喜びであり、楽しさでした。甘いもので良かった。これがお酒だったら、アル中です。煙草だったら、ひっきりなしに吸っていたことでしょう。そうした挙句の果てには、身体を壊していたかもしれません。
頭痛を感じたとき、すぐに薬に頼りたくなるのもまた、ひとつの依存です。ここ最近の私は、頭痛を感じたときには『本日休業』のオーラを出しまくり、ひたすら何もしないことを自分に赦し、横になる方法で痛みをやり過ごすことに決めました。
私の頭痛には、たくさんの鎮痛剤が効き目を発揮してくれます。有り難いことです。でも、横になり、ひたすら安静にしているだけで、頭痛は消えていくことを経験しました。
身体の痛みは、有り難くも、様々な効き目のある薬が病院でもらうことができます。でも、心の痛みは・・・?近頃、芸能界の薬物依存に関するニュースが相次いでいます。
『テレビに出る人間は一発アウト』
『いや、反省したら機会を与えるべきだ』
様々な意見がワイドショーを彩っているようです。間違いを犯した人に罰を与えて、それが一体何になるんだろう?と思えてならないのです。
頭痛を感じたときの鎮痛剤の効き目を知ったら、痛みを感じたときに薬を飲もうと思うのはごく自然なことでした。また、甘いものを好きだから食べているだけだと思っていたら、驚くほど中毒化している自分に驚いたのです。これは、多くの人の日常でもあると思うのです。そんな『普通』である日々と、世間を賑わすほどの『大事件』であることと、どれほどの差があるというのでしょうか。
それがたまたま、『違法』なものであった。たったこれだけの違いです。誰もが無意識に、何らかの虜になっている。でも、それに気づいてさえいない現状の中で、人のことをとやかく言えません。
依存は【罰】ではなく【愛】で克服できます!
依存を罰して何になるのでしょう。余計に追い込んで、更なる依存に拍車をかけているようなものだと思えるのです。薬物で逮捕された元野球選手が、仲間に助けられ、イベントを成功させたことがニュースになっていました。とても暖かい様子に、私は感動しました。
心が弱った人に、更なる冷たい風を浴びせるよりも、太陽のようなあたたかさで包むことが、依存から立ち直る唯一の方法だと思えるのです。
有名人が逮捕者されるたびに、とことん非難する私たちの社会。その人だけが悪いのでしょうか。高みの見物をしている私たちに、何一つ責任はないのでしょうか。
『また一人、逮捕者をだしてしまった』という反省を、社会もする時期に来ているのではないでしょうか。私たちの『社会』は、誰一人、間違いを犯さず、正しき人間だけが集まっているのではありません。誰もが、人間であるが故の間違いを犯すのです。それを、目くじら立てて怒るのは、一人一人の余裕のなさからきているのです。
自分の弱さを、人に投影して批判していても何の解決にもなりません。それどころか、病んだ人を更に生み出す社会を作ってしまっているのです。私たちは、批判するエネルギーを、もっと創造的に使うこともできるのです。
孤独を感じている人を、見逃してしまった責任。手を差し伸べる方法を模索してみませんか。
不安を感じている人を、放っておいてしまった責任。大丈夫だと確信するにはどうすればいいか、もう一度考えてみませんか。
痛みを抱えている人を、信じてあげられなかった責任。その人の内に在る強さを、今度こそ信じてみませんか。
あらゆる責任が、高みの見物をしている私たちにもあるのです。そして、事態を好転させる可能性も。
私が甘いものを止められたのは、【自分を愛する】ということの実践でもありました。誰が、それを食べたがっているのか?もちろん、魂が食べたがっているわけではなく、小我が食べたがっているのです。その声を愛を持って包み、甘いものを食べる必要がないことを、自分に取り戻していきました。
頭痛薬を飲みたいとき、身体を休めることを第一に考えました。身体へのリスペクトを実践したのです。たかだか2,3日休むことを良しとしない人は、もともと私の人生に必要のない人。必要な人だけが残ってくれるなんて、好都合です。
自分への愛、誰かへの愛。
愛が、真の思いやりに溢れた社会を築く、礎になっていくといいです。
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