これまでスムーズだったことに、ふと、行き詰りを感じたり、何かが上手くいかなくなったりと、人生の歯車がかみ合わないのを感じたことはありませんか?私は、大いにあるのです。全てが閉ざされたように、希望を全く見いだせず、人生に何が起こっているのか把握できないでいるときがありました。
「誰も助けてくれない」という悟り
それはもう孤独ですし、意固地になって、誰にも会いたくない時期と、そうかと思えば、「この状況をどうにかしなければ・・・」と急き立てられるように人と会うことを繰り返していました。このまま、自分が埋もれてしまうことを、必死にもがき抵抗していたのです。今思えば、結局、状況を悪化させていただけのような気がしますが・・・。当時は必死でした。
最善だと思ってやっていたことだし、それ以外の策を見つけられずにいたのです。誰かからの、救いの手が差し伸べられるのを待っていました。きっと、誰かがどうにかしてくれる。そんな期待を込めて、今度会う人こそ!今度こそ!私をこの停滞から引っ張り出してくれるはず。そう思っていました。そして・・・
「誰も何もしてくれない」「誰も助けてくれない」ことを悟ると、また私は、人と会うことを避けたくなるのです。
こんなことを、何度繰り返してきたことでしょう。
空回りする日々から得たもの
結局、自分を見つめない限り、状況を変えるのは不可能だったのです。何度だって、その状況はやってくる。逃れることはできません。何故なら、それこそが自分の課題であり、人生における学びのテーマだからです。行き詰まりを感じたときに、気づくべきことはたった1つ。どんな状況でも同じです。
かみ合っていない歯車は外にはなく、自分の内に在るという気付き。これだけなのです。
私の場合、こうした状況下では感情のままにただ反応し、出来事に翻弄され、一喜一憂するばかりでした。外を変えることにだけに一生懸命で、疲れきってしまっていたのも事実。だから人と会った後は必ず大量にエネルギーを使い果たし、まるで充電するかのように今度は人を避け引きこもる必要があったのです。そして、また見当違いな方へとエネルギーを費やすことの繰り返しでした。
自分の内を整えることが、何よりも大切だと気づけたのは、それからだいぶ経ってからのことです。相当な時間がかかりましたが、空回りしている歯車を自分の内に発見し、今に至ります。
何を与えられ、何を受けっているのか?
もちろん、スムーズさに欠けることは今でも多々起こります。無くなることはありません。でもそうしたとき、これまでのようにただ混乱するのではなく、その混乱から得られる学びや機会として、たくさんのもを得ることが出来るようになりました。また、ここで得たものとは、それが起こらなければ到底気づけないものでもあったのです。
そこで感じたのは、こうした人生の行き詰まりや、何かが上手くいかなくなっているとき、その現象が自分に何を与えているのかを自分に問うことが大切だということです。
多くの場合、これまでとは違ったやり方、新しいやり方であったり、方向性を探ることだったり、これまでを統合し生み出してみたりと・・・、何らかの終わりと始まりを意味していました。何かが終わることへの恐怖と執着は苦しいほどの痛みが伴い、自己否定のどん底に落とされるような思いで、何度涙を流したか分かりません。。。
でも、そうした日々からしか得られないものがあるのです。だからこそ、培われるものがあるのです。このもがき苦しむ時間は、決して無駄にはなっていないのです。
閉塞感や行き詰まりから得られるもの
当時の私が得たものは、そうした時には無理に物事を続けようとしないということでした。【終わり】は、既に始まっているのですから、これまでのやり方に拘り、執着し、【終わる】ことに抵抗している分だけ、痛みは増し被害は大きくなるということです。
終わることは、何かの始まりでもありますから、新しい何かを生み出すことに意識を向ける方がより創造的で自主的です。新たに始まっていくものを自分の内に発見し、終わることへの恐怖と執着を手放すことを自然に起こさせます。破壊と創造は、コインの裏と表。2つで1つ。セットでやってくるのです。
始まりの初めは、生みの苦しみを伴うかもしれません。自分が、一体何を創造しているかさえ、分からないこともあるでしょう。でも、必ずあなたは生み出すことができます。自分に何ができるかを問い続ける限り、あなたの創造性が発揮される日は必ずやってきます。
個人の視点を広げて、社会の【今】を見る
この話は個人の話としても受け取ることができますが、社会という大きな括りの中でも使うことができます。
何かがぶっ壊れない限り、新しいものは生まれないのでしょう。ここ最近の日本は、自然災害が多発しており、毎年のように被害が出ています。しかも年々、その被害は大きなものとなっているような気がしてなりません。更には、あの真夏の猛暑の中でオリンピックを開催するという・・・。
そんな中で、コロナウィルスが現れました。当たり前のように続くと思われていた生活が、突然ストップする事態になっています。非日常が、いつまで続くかさえ分からない緊急事態。この流れから、私たちは何を学ぶことができるのでしょう?ここに、どんな学びが隠されているのでしょうか?
伝統を重んじることは、とても大切なことです。でも、そこに縛られ、固執しているばかりでは必ず衰退します。伝統を守り続けるには、時に臨機応変さが求められます。それは、昨日の続きを淡々と熟すことからの脱却でもあります。当たり前の日常から、一人ひとりが更に自分らしさへと還っていくための、重要な機会なのです。
閉塞感であったり、行き詰まりを感じたときこそ、新たなものを生み出すタイミングということです。
そしてそれは、外に求めるものではなく、一人ひとりの内側。自分自身の内側に、既に在るのです。
閉塞感や行き詰まりを得て生み出される、新たなもの
自分を探求し、深めることを、日々の日課にするようになってから、そうした苦しみが和らいだことを実感しています。深刻にならないでいられるようになったというか、まあいいやと、物事を軽く受け止められるのです。例えどーんと落ち込むことがあったとしても、それはそれでいいじゃないと、すぐに気持ちを切り替えられるようになったのです。望まないことが起こった時でも、引きずる必要がなくなりました。
そんな自分の成長が嬉しくもあり、新しい次元を学んでいることに自覚が芽生え、その相乗効果は自分の外側の世界に好影響を及ぼしています。「誰も助けてくれない・・・」という切なる願いの最中に、自分を整えることができれば、いろんな方からの助けがもたらされることを経験しました。誰も助けてくれなかったのは、気づかないうちに自分を閉ざして、人を遠ざけていたからなのです。
自分を開くことの大切さに気づけば、絶妙なタイミングで、奇跡のような助けが入るのです。助けを望まなくとも、向こうから協力者がやってきてくれる。こうして、自分の内に在る創造性を表現することが、たやすくなっていく。閉塞感や行き詰まりの感覚が、終わりからの始まりを教えてくれていることに気づけばこそ、新たな流れを創りだすことが可能になるのです。
もちろん、これまでのやり方を変え、新たなものへと変容させていく過程は華やかさにかけ、地道な模索の時が続くでしょう。でも、その中で生み出されるものは、本物です。
全ては、自分なのです。もう、無駄なエネルギーを浪費することなく、ただただ、自分自身を整えましょう!あなたが創り出す、新たなもへの目覚めの時です。人生は、リノベーションをし続けることなのかもしれません。あなたは、常に進化していくということです。
社会が今、大きな変容のときを迎えています。新しいやり方へと、否応なく向かう中、私たちは自分が何に執着しているかに気づき、手放していく必要があることを自然から教わっています。今、まさに、新たなる時代を創造していく者であるという自覚への、目覚めのときなのです。
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